大判例

20世紀の現憲法下の裁判例を掲載しています。

福岡地方裁判所 昭和60年(ワ)2862号 判決

原告

川口五月

被告

荒巻淳一

ほか一名

主文

一  原告の請求を棄却する。

二  訴訟費用は原告の負担とする。

事実

第一当事者の求めた裁判

一  請求の趣旨

1  被告らは、原告に対し、各自金一一九九万九〇二三円及びこれに対する昭和五七年六月二二日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。

2  訴訟費用は被告らの負担とする。

3  仮執行宣言

二  請求の趣旨に対する答弁

1  主文同旨

2  仮執行免脱宣言

第二当事者の主張

一  請求原因

1  事故の発生

(一) 日時 昭和五七年六月二二日午後三時三五分頃

(二) 場所 福岡市南区弥永四丁目一〇番一七号先交差点(以下本件交差点という)

(三) 加害車 普通貨物自動車(福岡一一あ七六一九、以下加害車という)

右運転者 被告荒巻淳一(以下被告荒巻という)

右保有者 被告九州みどり輸送株式会社(以下被告会社という)

(四) 被害者 原告

(五) 態様 加害車が、折から青信号により歩道上を横断歩行中の原告に衝突した。

2  責任原因

(一) 運行供用者責任(自賠法三条)

被告会社は加害車を保有し、自己のために運行の用に供していた。

(二) 一般不法行為責任(民法七〇九条)

被告荒巻は、加害車を運転して本件交差点に進入する際、前方及び左右不注意の過失により本件事故を発生させた。

3  損害

(一) 原告の受傷と治療経過

原告は、本件事故により頭部打撲挫創(頭蓋骨々折)、脳挫傷等の傷害を負い、昭和五七年六月二二日から同年八月三一日まで七一日間医療法人喜悦会那珂川病院(以下那珂川病院という)に入院し、同年九月一日から同年一二月二〇日まで一一一日間(実日数八日)同病院に通院し、同五八年五月四日から同六〇年四月九日まで(実日数七日)福岡大学病院(以下福大病院という)に通院した。

(二) 損害額

(1) 入院雑費 七万一〇〇〇円

一日当り一〇〇〇円として七一日分。

(2) 付添看護料 一八万二五〇〇円

(ア) 入院付添 一日当り四〇〇〇円として三〇回分。

(イ) 通院付添 一日当り二五〇〇円として二五回分。

(3) 通院交通費 一二万五〇〇〇円

一回当り五〇〇〇円として二五回分。

(4) 後遺症による逸失利益 一〇五二万五二三円

原告は、本件事故による受傷のため、後遺障害等級九級一〇号に該当する後遺障害を残した。

昭和五九年度賃金センサス女子一八歳の平均に、ベースアツプ分として五パーセント加算すると、年収は、左記(ア)のとおり、一六〇万一八八〇円となり、事故当時七歳で、一八歳から六七歳まで四九年間就労可能であるから新ホフマン係数は一八・七六四六であり、前記後遺障害の労働能力喪失率は三五パーセントであるので、左記(イ)のとおり、一〇五二万五二三円となる。

(ア) (11万6800円×12+12万4000円)×1.05=160万1880円

(イ) 160万1880円×0.35×18.7646=1052万0523円

(5) 慰謝料 七一〇万円

(ア) 傷害慰謝料 一八〇万円

(イ) 後遺障害慰謝料 五三〇万円

(6) 弁護士費用 一〇〇万円

原告は、本訴の提起、追行を原告訴訟代理人に委任したが、被告らの負担すべき弁護士費用は、金一〇〇万円が相当である。

(7) 損害の填補

原告は、被告らから、七〇〇万円の支払を受けた。

よつて、原告は、被告ら各自に対し、3(二)(1)ないし(6)の合計額一八九九万九〇二三円から(7)を控除した一一九九万九〇二三円及びこれに対する事故発生の日である昭和五七年六月二二日から支払済みまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払を求める。

二  請求原因に対する認否

1  請求原因1、2及び3(一)の事実は認める。

2  同3(二)(1)ないし(3)、(5)の各事実は否認する。同3(二)(4)の事実は争う。同3(二)(6)の事実は不知。同3(二)(7)の事実は有利に援用する。

三  抗弁

原告と被告らとの間に、昭和六〇年九月五日、本件事故について、(1)被告らは、原告に対し、治療費及び看護料として四八万四九四四円を支払う、(2)被告らは、原告に対し、その余の一切の賠償金として七〇〇万円の支払債務があることを認め、既払金五〇万円を控除し、残額六五〇万円を支払う、(3)右示談条項以外に原告と被告らとの間に債権債務は存在しないことを確認する、との示談が成立した。

四  抗弁に対する認否

抗弁事実を否認する。

五  再抗弁

1  公序良俗違反(民法九〇条)

原告法定代理人らは、本件示談をするに際し、原告の後遺障害の等級も知らされず、後遺障害により労働能力が喪失することも理解せず、とにかくこれ以上の保険金は出ないと言われ、やむなく示談をしたものであつて、本件示談は、原告法定代理人らの無知、無思慮、軽率に乗じてなされたものであるから公序良俗に反し無効である。

2  錯誤(民法九五条)

原告法定代理人らは、原告に後遺障害による労働能力の喪失はないと信じて示談したのであるが、後に右労働能力の喪失があることが判明した。従つて、本件示談は、原告法定代理人らにおいて重要部分につき錯誤があつたものとして無効である。

六  再抗弁に対する認否

再抗弁事実はいずれも否認する。

第三証拠〔略〕

理由

一  本件事故の発生

請求原因1の事実は当事者間に争いがない。

二  責任原因

請求原因2の事実は当事者間に争いがない。

三  示談の成立

当事者乙(被害者)作成部分につき、原告法定代理人川口大和の自署であることに争いがないので真正に成立したものと推定され、その余の部分につき証人本田祐児の証言により真正に成立したものと認められる乙第一号証、右証言、原告法定代理人川口喜代子の各尋問結果によれば抗弁事実(示談の成立)を認めることができる。

四  示談の効力

原告は、本件示談は、公序良俗に反し、また原告法定代理人らにおいて錯誤があつたから無効である旨主張するので判断する。

1  前記当事者間に争いのない事実と、甲第九号証の存在、前掲乙第一号証、成立に争いのない甲第一ないし第八号証、第一〇ないし第一二号証、乙第二ないし第一〇号証、第一一号証の一ないし七、第一二号証の一、二、証人本田祐児の証言、原告法定代理人川口大和及び同川口喜代子の各尋問結果並びに弁論の全趣旨によれば、以下の事実が認められ、これを覆すに足りる証拠はない。

(一)  被告荒巻は、加害車を運転して、福岡市から春日市方面へ向け、時速約四五キロメートルで直進中、本件交差点の約五〇メートル手前で、助手席に置いていた配達伝票が落ちたのに気をとられ、本件交差点の対面信号が赤になつているのを見落し、進行方向右側から、青信号に従い、自転車に乗つて横断していた原告の発見が遅れ、ハンドルを左転把し、急制動の措置を採るも間に合わず、原告に衝突した。

(二)  原告は、本件事故により、頭部打撲、挫創(頭蓋骨々折)、脳挫創疑い、脳しんとう症の傷害を受け、事故当日である昭和五七年六月二二日から同年八月三一日まで那珂川病院に入院した。同病院の主治医訴外井上繁孝医師の診断によれば、原告は、「頭部を強打し、頭蓋骨々折を来し、約五日間の意識消失が続く、CT像にて出血等は見られなかつた、四肢麻痺は見られず、頭痛は長期に亘り持続す」とのことであつた。

(三)  原告は、右退院後、昭和五七年一二月二〇日まで右病院に通院したが、前記井上医師は、頭重感、頭痛が持続するため、脳神経外科的特殊診療の必要ありとして、原告を福大病院に転医させた。

(四)  この間、原告は、昭和五七年八月一七日から同年八月二八日まで一二日間(内実日数九日)加島整骨院に入院するとともに、同年七月三〇日から昭和六〇年四月九日まで福大病院に通院した。福大病院の主治医訴外太田辰彦医師の診断によれば、「原告は、軽度の記銘力障害、眼球運動異常、軽い左方麻痺を認め、CTスキヤン(那珂川病院)にて左前頭葉の脳挫傷の所見を認めた。その後、抗けいれん剤の投与及び外来にて経過観察、記銘力障害、計算力低下、夜尿症等が認められたが徐々に回復した。しかし、CTスキヤン上、左前頭、側頭葉の萎縮、脳波上の左前頭側頭部の機能障害を認めている。また昭和六〇年四月九日に行なわれたWISC・R知能検査では、軽度の知能障害を認めている。自覚的には、物忘れ、右上肢の脱力感、頭痛、頭重感を訴えている」とのことである。

(五)  そして、前記太田医師は、原告法定代理人らの依頼により、自賠責保険後遺障害診断書(甲第八号証)において、昭和六〇年七月九日、原告について、「傷病名―脳挫傷、自覚症状―物忘れしやすい、握つている物を落し易い(右上肢の脱力感)、頭痛、頭重感、知能低下、精神・神経の障害―(1)知能低下(軽度)WISC・R知能検査IQ・八三(言語性IQ八七、動作性IQ八三)、(2)知覚、反射、筋萎縮等の異常は認めないが、右上肢の精密な運動がやや下手、(3)CTスキヤン、前頭、側頭葉(左側)の萎縮所見(脳挫傷後の変化)、(4)脳波、左前頭、側頭部の徐波、症状固定日―昭和五九年四月九日、障害内容の増悪緩和の見通し―脳萎縮の状態は、CTスキヤン上中程度あり、ほぼ固定している」との診断をなし、これに基づき、昭和六〇年八月二九日原告について、後遺障害九級一〇号の認定がなされた。

(六)  被告ら加入の自賠責及び任意保険会社日本火災海上保険株式会社の調査担当者訴外本田祐児(以下訴外本田という)は、昭和五八年四月一日より前任者から引継を受け、原告の父川口大和(以下大和という)や原告法定代理人らから委任を受けた、原告の母川口喜代子(以下喜代子という)の兄訴外原隆雄(以下訴外原という)の運転手訴外堀内某(以下訴外堀内という)との間に、本件示談までに三回面会して示談交渉をなし、その際、訴外本田は、同堀内に対し、前記後遺症認定結果を伝えるとともに、総額金六五〇万円(但し、治療費を除く。)の呈示をなした。

(七)  そして、昭和六〇年九月五日、訴外原宅に、訴外本田、原告法定代理人ら、訴外堀内及び同原が参集して示談交渉がなされ、その際訴外本田からは、後遺症認定等級九級一〇号として総額金六五〇万円の呈示がなされたところ、大和が、被告会社から既に金五〇万円を受取つている旨述べたので、これを加算して、総額七〇〇万円とし、既払金五〇万円を除く残額六五〇万円を支払う、との合意がなされた。そこで、本田は、示談書(乙第一号証)の示談の条項欄に「(1)被告両名は原告の治療費全額を支払う、(2)被告両名は、原告に対し、一切の賠償金(後遺症九級一〇号含む)として金七〇〇万円を支払う。但し、既払金五〇万円を差引き残金六五〇万円を支払う、(3)後日後遺症(九級一〇号以外)が発生した場合は、被告ら加入の自賠責を使用して被害者請求とする。上記条件をもつて被告ら、原告間共に債権債務がないことを確認する」との記載をなし、大和に対し、当事者乙(被害者)欄に署名捺印を求めたところ、同人はこれをなした。その際、訴外本田は、控えとして、右示談条項の記載のない示談書用紙二枚にも、右同様大和に署名捺印をしてもらつた。

(八)  その後、本田は、示談書(乙第一号証)の示談条項欄(1)の末尾に、「看護料金四八万四九四四円を被告らは原告に支払う」との記載をなし、昭和六〇年九月中に、大和に対し、金六五〇万円を送金支払した。

(九)  なお、本件示談に際し、訴外本田から支払呈示された金六五〇万円の内訳は、治療関係費として、治療費柔道整復費金九三万九四六五円、入院料入院部屋代金九六万八六〇〇円、看護料金四八万四九四四円、通院費金一万二九三〇円、諸雑費金四万二六〇〇円、文書料金七〇〇円、慰謝料として金一七三万円、後遺障害による損害として金五二二万円、以上合計金九三九万九二三九円から既払額金二八九万三〇〇九円を差引いたものとされている。

但し、訴外本田は、本件示談の際、右内訳を原告法定代理人らに明らかにしていない。

2  右認定事実をもとに、原告の主張について判断するに、原告法定代理人らは、交通事故示談に関する知識経験の乏しさを補うべく、訴外堀内に示談交渉を依頼し、本件示談書の作成も前記原宅において、右堀内及び原の同席のもとでなされたこと、訴外本田は、本件示談の際、原告法定代理人らに対し、原告の後遺障害は九級一〇号に該当する旨告げており、示談書の示談条項欄にもその旨記載していること、また前記のとおり、原告法定代理人らは、昭和六〇年七月九日に原告の主治医である福岡大学病院脳神経外科太田辰彦医師に依頼して自賠責保険後遺障害診断書(甲第八号証)を作成してもらつており、同診断書によれば、原告の後遺障害の詳細な内容を知り得たものと考えられること、しかも、右診断書によれば、原告の後遺症の症状固定日は昭和五九年四月九日とされており、原告法定代理人らにおいて、本件示談に至るまでに原告の日常の生活状況から、その労働能力がどの程度制限されるかも認識可能であつたと考えられるから、本件示談成立時、後遺障害による損害についてこれを把握し難い状況下であつたとはいえず、また損害填補額として、被告らにおいて治療費看護料を除き金七〇〇万円(但し、金五〇万円は既払)の支払義務を認めた金員総額はあながち不当なものとはいえないことからすれば、本件示談が公序良俗に反し無効であるとはいえないし、また本件示談をなすについて原告法定代理人らに錯誤があつたということもできない。

五  以上によれば、原告の本訴請求は、その余の点について判断するまでもなく理由がないからこれを棄却することとし、訴訟費用について民訴法八九条を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判官 吉田肇)

自由と民主主義を守るため、ウクライナ軍に支援を!
©大判例